<建学の精神>
『凡ソ學問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ故ニ
國體ヲ講明シテ以テ立国ノ基礎ヲ鞏クシ
徳性ヲ涵養シテ以テ人生ノ本分ヲ尽スハ百
世易フベカラズ典則ナリ而シテ世或ハ此ニ
暗シ是レ本黌ノ設立ヲ要スル所以ナリ』
明治十五年十一月四日
一品勳一等有栖川宮熾仁親王
<團史>
当團の歴史は戦前の応援統制部に遡る。各部会の有志より構成され、羽織、袴に下駄、角帽という出立であった。しかし、大東亜戦争がはじまりその活動は中断した。
昭和二十年、日本敗戦。
戦後の廃墟に本學は奇跡的に焼け残った。故折口信夫教授は戦後の廃墟にそびえたつ大學の雄姿を
「どこもかしこも灰だらけ 廃墟の中にくっきりと 立った姿に泣けてくる ああ國學は亡びず」と作詞された。(本學名物「國大音頭」)
戦後、占領軍GHQにより神道は危険思想とされ弾圧され、「神道大學」は「教育上に於ける”神道指令”違反の最もこのましからざる存在」とされ存続の危機に立った。
また武道系スポーツは禁止され、たとえば剣道は竹刀競技へと貶められ、日本人の精神無力化と分裂化が計られた。
こうした時、教授や学生有志より建学の精神を守り学生を勇気づけるため應援團復興を願う声が高まり、単に野球の応援をするだけでなく、学生の一切のクラブ活動を応援する
団体として復活した。そして、昭和二十四年、他大学五校と共に東都大学応援団連盟を結成した。
(このころ昭和二十七年秋、駒場の東大教養学部で開かれた全学連秘密会議において日共私大対策本部が明治大学の次にもっとも赤化しにくいと考えらていた日本大学、青山学院大学、
そして國學院大學を次の標的としていることがあきらかとなり、本學の新たな危機が始まろうとしていた。)
昭和三十七年ごろには戦後の混乱期にできた渋谷の暴力団A組との関係を当時の教授や先輩方が大変なご苦労をされて健全化した。
昭和四十六年には全学生の圧倒的な支持のもと國學院大學應援團から國學院大學全學應援團へと名称を改め、それまでの一部会的存在から学生自治活動の一
翼をも担う組織として昇格した。(この背景には当時の学園紛争の影響があると思われる。なぜならば本學学生自治組織五団体のうち三団体は某左翼過激派組織□〇派であり、
大學の伝統を守ろうとする健全な自治組織は體育聯合會と全學應援團だけである。昭和四十四年には自治会系学生と體聯系学生による衝突六・二七事件が発生。)
(尚、昭和三十八年にも学生総会に於いて體育聯合會より「全學應援團」とすることの議案書が出ているが、その内容は極秘であるので公表はできない。)
このような緊迫した世情の中に於いて昭和四十六年、國大戦没学徒慰霊祭で学生代表追悼詞を当時の團長が務められ、以来先輩戦没学徒慰霊祭における学生代表追悼詞は
歴代團長が務めている。
翌、昭和四十七年には全日本學生應援團聯盟本部校を引き受け、その任務を立派に遂行した。その後、昭和五十四年、昭和六十年、平成二年、平成十年にも連盟本部校を引き受け、
その任務を立派に遂行した。これは我が團にとって誇りあることである。我が團は社会情勢が変化する中、大學の伝統を守り、日夜努力精進している。
〇活動報告
〇画像項目
*当項及び関連項は当時の應援團の写真を用いて記録的に再現したもので現在の應援團とは必ずしも関係ありません。
*写真の無断転用を禁じます。